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忘れられない あの日のこと

2年前の 3月11日のこと

あの日から 2年が経ちました
今まで あまり話したくなった あの日の事
あの日の 恐怖を 今日は少しだけ 書きたいと思います

あの日の午後 私は 家のあるK市から
車で 実家のあるY町に 向かっていました
父が入院している病院に 行くためです

父は 体調を崩して 1ケ月ほど前から 同町の病院に入院しておりました
体は あまり動かせなくなっていたのですが 意識はちゃんとしていて
私達が行くと うなずいて返事をしていました
そんな父に 私と姉と実家の義姉とで できる限り付き添ってやりたいと
その日も 2時半頃に 義姉と交代したばかりの事でした

突然 ドドーッと 大きな音とも響きとも分からない
かつて経験したことのない 恐ろしいものが やってきました
鉄筋コンクリート5階建ての病院の建物が
地の底からの響きに 大きく揺れて 立つことも 動くこともできませんでした

病室には 寝たきりに近い患者さんが 父を含めて6人
何が起きたかも分からない恐怖に 酸素マスクを外してしまったり
叫んだりしていました

地響きと 揺れは 何度も繰り返し繰り返しやってきて
6台のベッドは 患者さんを乗せたまま
病室の中を 何度となくぶつかりながら 動き続けました

廊下では 泣き叫ぶ人の声がしていました。若い看護師さんも泣いていました
直後 酸素の漏れるシューっという音が
一層恐怖心を 募らせました 

私は なすすべもなく 動くベッドの端につかまって
父の顔を覗きながら 物が落ちて けがをしないようにと
タオルやまくらで 父の顔の周りを 囲みました

まだ寒い日で ダウンジャケットを持っていたので
揺れが小さくなった時を 見計らって
急いで ダウンジャケットを着て フードも被り 携帯電話を握りしめました
そして それ以上は もう何もできませんでした

何度も何度も 地響きとともにやってくる 大きな揺れに
ただただ 父のそばで ベッドにつかまって
知らず 怖いー怖いーと 叫んでいました

この時 私は ああ 私はここで父と一緒に・・・
そういう運命だったんだ と 思いました

どのぐらいの時がたったのでしょうか
10分なのか20分なのか 分かりませんでした
廊下で 歩ける人は 外に出て下さい という声がしました

でもそれは アナウンスではなく とても小さくて・・
父は動けないし 私には どうしたら良いのか 分かりませんでした
相変わらず 強い揺れが 2,3分おきにやってくる中
暫くして 廊下に出てみると たくさんの患者さんが
歩いて階段に向かい始めていました

車椅子の人は 看護師さんが付き添って
階段は男性の職員の方が おんぶしたり抱えたりして
どんどん避難し始めました
建物が 崩壊する危険があるらしいのです

私は ただただおろおろしていました
みんなが 大変で 怖い思いをしていて 病気の人がたくさんいる中で
父を 早く避難させて下さい とは とても言えませんでしたし
もちろん 周りの人は 皆必死で
そんなことを聞いてくれる相手も 見つかりませんでした

どうしよう どうしよう 私がおんぶしても
4階下までは とても行けそうにないし このまま居るしかない・・・
そう思って また病室に戻りました 
父は 地震が起きたことは 分かっているようで
目をきょろきょろさせて 声も出しませんでした

どのくらい経った頃か
付き添いの方も 外に出て下さい という声が聞こえました
相変わらず アナウンスではなく 余り大きくない 肉声でした
それだけです それだけでは 父を置いて避難はできません
その時初めて 患者は 動けないんですけど 患者は? と
廊下に居た 中年の看護師さんに聞きました

患者さんは 私達で運びますので 先に外に出て下さい
というのです・・この時 4階の いえ後で知ったのですが
他の階の患者さんも すでに大半が 避難した後のようでした

私は 父を振り返り 振り返りながら 
気が進まないまま廊下に出て 階段をゆっくり降り始めました
廊下も 階段も 点滴が倒れたり ゴミや医療器具が 飛び散ったりして
ビショビショに濡れていて まるで 映画を見ているような 光景でした 

外に出ると 雪が吹き付ける中 たくさんの患者さんが
寒さに震えながら 呆然と立ったり 椅子に寝かされたりしていました
5分ほど経ったでしょうか 私には長く長く 待ちきれない時間でした
父は 一向に 運ばれて来ません

とうとう 私は 外に 出て下さいという声をふりきって
もう一度 階段を登り始めました
部屋に入ると 父の他にも まだ残されている人がいて
助けて と泣きたい気持ちに なりました
そして その時ちょうど 看護師さんたちが 病室に入ってきたのです

大丈夫です 今 運びますから  
そう言ったかどうか 覚えていません
ただ私は やっと 父の番が来たことを知り また 外に出て待っていると
ほどなくして 父は 外の長椅子に寝かされました

風も強くなってきて 外は吹雪のようになりましたが
布団を一枚余計にかけてもらい 車から小さなひざかけも出して
父の体を温めました
気になっていた 点滴も 看護師さんが来て 一端抜いてくれました
私も やっと少し安心して 車に皮手袋があるのを思い出して 持ってきました

あの時の 恐怖と光景は 今でも頭から離れません
揺れる建物の外に 寝かされている父は 患者さんたちは
寒さに震えながら 一体何を思っていたでしょうか

父を心配する気持ちと 恐ろしさと
連絡が取れない 夫や他の親族の事を 心配する気持ちとが交錯して
どうしたらよいのか分からず ただ しゃべらない父に声をかけながら
寒さに耐えていました

それから 一時間以上も経った頃
比較的新しい病棟の1階に スペースが取れるとのことで
患者さんたちは全員 屋内に運ばれました
皆 病気で入院していて 体調が悪いのに
吹雪の中 布団や段ボールで風を避ける程度で 1時間も 外に居たのです

父が屋内の ベッドに寝かされ 点滴を受けて落ち着いてから
私は 同じ病院に入院している 叔母を探し
無事車椅子に座っているのを 見つけました
そして 叔母に声をかけて 急ぎ病院から実家へと向かいました

途中道路は隆起して マンホールの管が むき出しになっていたり
踏切は 遮断機が壊れていました

実家は 家中の棚やものが散乱して 玄関は入れない状態でした
私は 義姉と姪と一緒になって 揺れるたびに
廊下側から 家の中に入ったり外に出たりを 繰り返していましたが
少しは弱くなってきたものの 揺れは 一向に収まる気配もなく
携帯電話も通じないので 不安は増すばかりでした

これより前 病院で外に居るときに
一度だけ 夫から大丈夫? というメールを受け取り
いわき市に出張している夫が 無事なことを知りました
そして 一度だけ通じた携帯で 義母が無事なことも確認しました

こうしていても 仕方がないと・・
私は運転して K市まで 一人で帰る決心をしました
この時 2時46分に最初の揺れがあってから もう3時間余りも過ぎていました
心配する義姉を後に 実家を出て 産業道路を通ると
あちこちに大きな地割れや 隆起がありましたが
すでに消防の方が出て 誘導をして下さいました

少しほっとしながら 地割れの続く国道に出て
通常なら30分で着く道のりを 渋滞で2時間半かけて
やっと家にたどり着きました
途中 道路わきの電柱や壁が 倒れてくるのではないかとか
地割れで 車が落ちるのではないかという恐怖で
力の入り過ぎる手の 震えが止まらず 心臓は破裂しそうなくらい
ドキドキしていました

家の中は 食器が散乱し、壁が崩れ 
2階では あらゆるものが倒れたり 落ちたりして
屋根瓦も 一部崩れて落ちでいましたが
家そのものは 無事に建っていました

この日から 3日間 片づけをして 簡単な食事をして
洋服を着たまま 靴をベッドの横に置いて寝る という生活をしました
水道が出るまでの 3日間は 水をもらうために 数時間も並び
壊れたものや 瓦や 家の周りなど 屋外で片づけ物をしていました 

そして 後で放射線量が もっとも高かったと聞かされたのも この数日のことで
私達は 後になって また別の恐怖に さらされることになったのです

震災の翌日 父を含め多くの患者さんは
他の病院に転移した事を知らされました
入院していた病院は 崩壊はしませんでしたが 地震で被害を受けて
一部を除いて 機能を果たせない状態に なっていたのです

そして それから1か月後の 2回目の 震度5の余震の日
父の容態は 急変し 帰らぬ人となりました
病院が変わってからは 父の具合は回復に向かうことはなく
2度目の余震のショックで 急変したと思われます

地震が無かったら・・とは 今でも思います
あの地震さえなかったら 父はもう少し長く生きていられたのに・・と
そして、原発の事も・・

長くなるので また機会を作って書きたいと思いますが
私達は 放射線から逃れるために 会津や宇都宮や 仙台に
泊まりに出かけ 家よりも少しだけ線量が低い
実家にも 度々泊めてもらいました

また、友人に頼んで 半年以上の間 野菜を送ってもらっていました
一時は 放射線の恐怖で 夜も寝られず 線量計を買って
自分で 被爆量を計算もしました

現在は 夫の転勤で 盛岡に居りますが
K市の自室は 屋根や 塀や壁を高圧洗浄機で洗った今でも
0.25~0.4マイクロシーベルト/時 の線量があります
 
たくさんの人が 私と同じように  震災さえ無かったらと 思っています
そして 震災で失った かけがえのない 家族や友人の事を
ずっと 忘れないで 生きていきたいと・・

事故当時 福島県民であった私達は
原発事故の恐ろしさを 風化させることなく
伝えていかなければならないと 今改めて 思うのです

私達は 忘れているわけでも 忘れようとしているわけでもありません
ただ 毎日放射線の話をしていても 何も変わらないから
できるだけ 毎日を楽しく 落ち込まないように 過ごそうとしているだけです
屋根や壁や 塀を洗ったり 枝を切ったり
丁寧に拭き掃除をしたり 自分たちでできることは もうやりました

自分や周りの人たちの体の事を考えると
時々 言いようもない不安もやってきます
それでも 今は それに対して 何をすることも できないのです

10年後20年後 一体何が起きるのか
誰にも分からないからこそ 放射線の影響を 
少しでも軽減していくことを 個人はもちろん 国や県や市町村で
もっともっと 考えて行かなければならないと 思います
加えて 原発の稼働問題についても・・・

今日 3月11日は 一生忘れられない
忘れてはいけない日なのです
by sarasunanikki-yk | 2013-03-11 11:48 | 震災・除染関連