2015年 06月 02日
るるるるるる・・・視覚の詩人、草野心平記念館を訪れて・・・その1
おはようございます
今日も暑くなりそう・・・毎日同じことを書いてしまいますが
ほんとに今年は早くから暑いですね。
そしてもう6月、時の過ぎてゆくのが、季節のすぎるのが
年々早く感じられるようになって
そうして年を重ねていくんですね
季節外れですが
秋の夜の会話・・・草野心平
さむいね
ああさむいね
虫がないているね
ああ虫がないているね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずいぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだろうね・・・
(記念館前の花)
あるいは、草野心平という詩人をご存知でしょうか?
福島県出身の詩人です
草野 心平(くさの しんぺい
1903年(明36年)5月12日 ~- 1988年(昭63年)11月12日)
福島県石城郡上小川村(現・いわき市小川町)出身。
5人兄弟の次男として生まれ、兄の民平( みんぺい)、弟天平( てんぺい))も詩人。
(記念館は、小高い山の上にあります)
1919年、磐城中学(現・福島県立磐城高等学校)を4年生で中退上京し
1920年、慶應義塾普通部3年次に編入。同年、同校を中退し
1921年、中国の広東嶺南大学(現・中山大学)・・(ミッション系、アメリカンスクール)に進学する。
1925年(大正14年)排日運動により、帰国。詩作はこの留学中に開始
1923年(大正12年)には、民平と自己の詩をおさめた『廃園の喇叭』を自費出版
(一時帰国、出版地は日本)。帰国後、雑誌『銅鑼』を主催し
ここに宮沢賢治や八木重吉らを同人に誘い、 彼らの作品の紹介に努めた。
1928年(昭和3年)、活版刷りとしては初の詩集となる『第百階級』を刊行
全篇が蛙をテーマにしたものであり, 以後も、この生物を扱った詩を書き続けた。
1935年(昭和10年)には、中原中也らと詩誌『歴程』を創刊する。
1938年(昭和13年)2月から4月まで、『帝都日日新聞』の記者として満州・中国に渡り
そのときの模様を『支那転々』にまとめている.
在中時代は、焼き鳥屋をやっていた経験を持ち、戦後日本に帰国した際にも
「 火の車」という焼き鳥店を経営。
(記念館入口へ)
1950年(昭和25年)「蛙の詩」によって、第1回読売文学賞を受賞。
1953年(昭和28年)福島県川内村長福寺の住職矢内俊晃の招聘で同村平伏沼に
モリアオガエルを見に行く。
1956年(昭和31年)平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。
1960年(昭和35年)川内村名誉村民となり、1966年、天山文庫が建設され
その後毎年7月に天山祭りが開催されるようになる。
1984年(昭和59年)7月、いわき市名誉市民となる。
1988年(昭和63年)11月12日死去。
1998年(平成10年)心平の功績が称えられ、福島県いわき市に
いわき市立草野心平記念文学館が建立される
主に Wikipediaより
日曜日、草野心平記念文学館に行ってきました
もう、何年も前から行きたいと思っていて
やっと実現した事でした
心平は生涯を通して、多くの文人と交流を持ち、カエルや自然を愛し
独特の視点と言葉で、詩を書きました
壇一雄とロシアに行ったり、棟方志功とインドに行ったりしたことも
その個性的な感覚を磨く事に繋がっていると思います
棟方志功については、その版画と心平の詩を
現代的に言えばコラボさせた本が出ています
ずいぶん前に、青森の志功記念館に行った時には
気づかなかったことでした
また草野心平の、カエルの言葉?カエル語?とも思える不思議な詩は
ちょうど宮沢賢治の、イーハトーヴや
賢治の童話に出てくる擬声語をも思い出させます
そういう点でも、共通した何かを見出したのか
賢治と心平は、書簡のみではあるけれど
親しい間柄となり
賢治没後に、彼の名を世に知らしめるために
賢治の家族や光太郎らと共に
大きな役割を果たしたのが心平でした。
るるるるるる・・・と、"る"という字だけを並べた詩や
真っ白い紙の真ん中に 黒い点があるだけだったり
その視覚に訴えようとする多くの特徴的な詩は
当時、色々な意味で、様々な評価を受けたようです。
それらを、視覚や聴覚に伝えるように工夫された展示で
館内は、独特の雰囲気でした
興味のある方は、一度ぜひ訪問されては・・と思います
こちらも詩です^^
書きたいことが、もう少しあるので
次回続けたいと思います
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